ランチをしながら情報収集をしていたら、「共感」についての記事を目にした。
個性的な視点で書かれており悪い印象はない。しかし、幾つか拝読していくにつれ、奇妙なバイアスを感じたので、ここに記しておく。
「共感の強制について」がテーマだった。
日本は同調圧力という見えない強制力があり私も好きではない。そして、私が真に共感できる人間かといったら、未熟さ故にそうとも言えないと思う。
しかし、自分は共感を求めないし、求める方がどうなの?と言いつつ、(とある事で)他者から認められて感動したというのはどうなのか?と思う。その感動は共感が生んだものに他ならないからだ。共感とは、そもそもが強制されてするものではないが「相手の気持ちになり(あたかも)その人の性格で環境で考え方で、同じように感じる、それをありのまま受け入れること」である。そうしてくれる人が傍にいるだけで、本人は自分自身に向き合うことができる。その瞬間がギフト(感動を生むこと)なのだと私は解釈している。
私自身も自戒の念を込めて書くが、自分の考えが一番正しいわけじゃない。
人は誰でも、自分の人生を賭けて習得したものをとても大切に想うものだ。だからこぞ、相手を尊重することが大切。相手を尊重すること=自分を下手(したて)にすること、ではない。
さらに、人が共感を求めていてもそれは普通。
なぜなら、共感を求めない場合は、だれにも話をする必要はないから。共感が必要ないものは胸に秘めたままでいる。誰かに何かを働きかけること(話すことなど)自体が、既に共感を求めていることになる。(自虐家でもない限り、拒否されたくて話をする人はいない。)人間は自分とは違う生き方や考えをもっている人に承認されることで、慰められたり満たされたりするものだ。
こんな風に考察してみると、性善説と性悪説のように別の角度から進めていって、ゆくゆくは一緒の到達点に向かっているのかもしれないな、と思ったりする。
どうにも、自分の領域には手厳しくなる私。
まだまだ、修行が足りない。