美しい月に出逢う旅

~私という自然を生きる~

帰郷の記録2023.11.4

今日は実家に来ている。

両親に昼食を食べさせてお茶を出し、いまは休憩時間。洗濯機を回しながら、小さなサンルームを片付けようと考えている。ここは洗濯物干し部屋として両親の寝室に設えてある場所だ。

 

母はあまり掃除が得意ではない。さらに高齢になり家事能力が低くなったために、洗濯干し場としては活用するけれど、サンルーム自体の掃除は放棄されていた。私が帰郷時に洗濯するようになって、何とかしなくてはと思い、今回着手。

物持ちの良い両親は、使い古された洗濯備品を現役で使い続けている。私自身が耐えきれなくなり、帰郷の途中で新品を調達してきた。床も何もかも大掃除が必要だ。

今日の1番の使命だと思っている(笑)

 

さて。

最近は帰郷の度に、「lalaがずっとこの家に居てくれたらいいな‥」と母から言われるようになった。父も時折、「もう帰ってこい」と言う。まるで、私が結婚していることを忘れているかのようだ。

現実的に実家住まいをすることは厳しいので、これまでは受け流してきた。そして、受け流しながらも、これまでブログにも書いてきたように、両親の願いを受け入れて退職するかどうかの瀬戸際まで悩んできた。

 

そこで今回、先ほど思い切ってこう聞いてみた。

"私が"この家にいることの「何が良い」と思うの?と。

①話ができる

②お世話(家事など)をしてもらえる

③lalaは(頼りになるから)安心できる

④lalaだから良い

 

①②は私でなくとも良さそうだが、③④は私でなければならない理由だった。

この母の回答を得て、私は正直複雑な気持ちになった。

 

頭では③④に気を良くして、私こそが両親の面倒をみようと覚悟する場面だと思うにもかかわらず、それと同時に心の中から妙な違和感が溢れ出し、この実家での生活が私の人生の中心になる事は難しいと感じた。この意外な心の動きに自分自身が狼狽えた。

 

この理由は、幼少期にあるように思う。

 

両親は物のない厳しい時代に一生懸命働いて、私と弟を養ってくれた。その点では本当に感謝の気持ちでいっぱいである。

しかし、その一方で両親は私に「理想的な長女(お姉ちゃん)」を求め続けた。物心ついた時には既に「お母さん代理」をしており、それが普通だと割り切っていた。私は両親に期待されている役割(成績優秀・面倒見が良いこと)を全うしたが、決して自分で望んでいたわけではない。母は無意識に、父は声高に、「こうなってもらいたい」と私に圧力をかけていた。幼少期〜18歳までずっとその期待は続き、私は本当の自分を生きられなかった。私が期待に応えられないと父は母に辛く当たった。父は不幸な幼少期を過ごしたために、酷い劣等感を持っていた。その劣等感を払拭するために、私は優秀でなければならなかったのだ。(注:田舎の事なので私は特別優秀ではない)

家族の平和を守るために、私は私なりに必死だった。そのため私は、「自分が好きな物は何か」「楽しいとはどういう気持ちか」わからない人間になってしまった。

 

その事を私が自覚したのは、30歳で離婚したのちのことだ。

人生のどん底から立ち直るために、必死で心理学を紐解き、専門書を読んで知識を深めた。そして、私の幼少期のトラウマが何であったか理解したのだ。

 

今回の母の言葉、③④を耳にしたとき、何かが鮮明になった。

私がこの家を背負うのはムリだと直感した。

再婚して現在を大切に生き、主人の協力もあって「楽しい」を理解し始めた今の私。自分の心の成長と共に、今のありのままの両親を受け入れて最大限に助けていこうと考えてきたが、今日の母の言葉を聞いた途端、「あぁ、こういう流れに流されて、私は自分を見失ったのだ」と気づいてしまった。

 

もちろん、両親を見捨てるわけではない。

両親はどんどん高齢化するから、これまで以上に帰郷もするだろう。しかし、両親のために退職したり、自分の道を踏み外すことなく生きて行こう!と固く思った。

 

私は「私の人生を生きる」。

 

私の人生を生きながら、できる範囲で両親をサポートしていこうと思う。例え毎回、冒頭のように懇願されても、自分の人生を生きる覚悟をしよう。

幼少期のように「自分の気持ちがわからない人間になりたくない」と思うから。